「ささげ終わると、王および彼とともにいたすべての者はひざをかがめ、伏し拝んだ。」(Ⅱ歴29:29)
膝をかがめ伏し拝む。
神の前にへりくだる思いを持って礼拝しています。
「ヒゼキヤ王とつかさたちが、ダビデおよび先見者アサフのことばをもって主をほめたたえるようにレビ人に命じると、彼らは喜びつつほめたたえた。そして、一同はひざまずき、伏し拝んだ。」(Ⅱ歴代誌29:30)
褒めたたえる。
皆さんもご自宅で、ハレルヤと言って手を上げて神様を賛美してください。神に向かって歌うのが賛美です。
賛美を聞いているだけではなく、捧げるのです。
あなたが声を出して神の前に捧げる。
そばに未信者の方がいたら大きな声を出せないかもしれませんが、小さな声であっても神に向かって歌う。
車の中であれば大きな声で手を上げて賛美できます。「私の賛美が届いていますか。私は感謝しています。」
そのような賛美を神が待っています。
「そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。近寄って来て、感謝のいけにえを主の宮に携えて来なさい。」 そこで、集団は感謝のいけにえを携えて来た。心から進んでささげる者がみな、全焼のいけにえを携えて来た。」(Ⅱ歴代誌29:31)
全焼のいけにえを自分で持ってきました。
全焼のいけにえの数は、「牛七十頭、雄羊百頭、子羊二百頭」です。
私たちは十分の一の献金、感謝の献金、信仰の捧げ物と色々あると思いますが、罪のための捧げ物はしません。
イエス様が全部してくださいましたので、私たちは罪を犯したから献金しますということは一切ないので感謝です。
そして全焼のいけにえとは別に、Ⅱ歴代誌29:33「聖なるささげ物は、牛六百頭、羊三千頭」という凄い数です。
そこで問題が起きました。ーーーーーー6
「ただ、祭司たちは、少なかったので、すべての全焼のいけにえの皮をはぎ尽くすことができなかった。そこで、彼らの兄弟に当たるレビ人が、その仕事を終え、祭司たちが身を聖別し終わるまで、彼らに加勢した。レビ人は、祭司たちよりも直ぐな心をもって、身を聖別したからである。」(Ⅱ歴代誌29:34)
3000頭、600頭といういけにえを限られた祭司だけではさばききれないわけです。
捧げ物の皮を剥いで全焼のいけにえにしたり、食べたり、煙にするなど主の宮の奉仕を用意する仕事がありますが、人手が足らず、祭司の下にいるレビ人に加勢してもらったということです。
彼らは祭司よりも直ぐな心をもって神の許しの中で手助けしました。
「ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために整えてくださったことを喜んだ。このことが即座に行われたからである。」(Ⅱ歴代誌29:36)
ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために即座に整えてくださったことに感謝しました。奇跡的なことです。
前王の時代から180度変わることができたのです。
「さて、ヒゼキヤは全イスラエルとユダに使いを遣わし、またエフライムとマナセに紙を書いて、エルサレムにある宮に来て、イスラエルの神、主に過越のいけにえをささげるよう呼びかけた。王とそのつかさたちとエルサレムの全集団は、第二の月に過越のいけにえをささげようと決議した。」(Ⅱ歴30:1,2)
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過越の祭りは小羊の血をかもいに塗ります。(塗っていてないとさばきが来て、その家の初子が全部死んでしまうということがありました。)
王が偶像崇拝していたので過越の祭事を行っていませんでしたが、このことについてヒゼキヤはユダだけではなく、全イスラエルとユダに呼びかけました。
またエフライムとマナセに手紙を送りました。
これはヨセフの子どもたちです。
エフライムはイスラエルの国のリーダーになっています。
イスラエルの人たちにも過ぎ越しの祭りを一緒にしましょうということを決めました。
「というのは、身を聖別した祭司たちは十分な数に足しておらず、民もエルサレムに集まっていなかったので、そのときには、ささげることができなかったからである。」(Ⅱ歴代誌30:3)
出エジプトしたのが第一の月なので、過越の祭りをイスラエルの暦で第二の月にすることは、普通はないのですが、祭司が足らないので第ニの月に行いましょうと決め、王も全集団もそれを良いと思いました。
しかし、イスラエルの人たちはみんながそうではありませんでした。
「彼らはベエル・シェバからダンに至るまで、全イスラエルにおふれを出し、上って来て、エルサレムでイスラエルの神、主に過越のいけにえをささげるように呼びかけることに決定した。しるされているとおりにささげる者が多くはいなかったからである。」(Ⅱ歴代誌30:5)
過越の祭りをする人は多くなかったのです。
そこで自分の近衛兵たちに手紙を持たせます。
「そこで、近衛兵は、王とそのつかさたちの手紙を携えて、イスラエルとユダの全土を行き巡り、王の命令のとおりに言った。「イスラエルの人たちよ。アブラハム、イサク、イスラエルの神、主に立ち返りなさい。そうすれば、主は、あなたがたに残された、アッシリヤの王たちの手をのがれた者たちのところに、帰って来てくださいます。」(Ⅱ歴30:6)
アッシリヤによって捕虜になった人もいますが、神に立ち返るなら帰って来ることができるようになると手紙を携えていきます。
国が分れている状態です。
私たちに当てはめるなら日本のリバイバルです。
今私たちが近所の人に伝道をし、一緒に礼拝しましょうと勧める、こういう働きと同じです。
ですが、みんなが賛同するわけではありません。
「あなたがたは、父祖の神、主に対して不信の罪を犯したあなたがたの父たち、兄弟たちのようになってはいけません。
あなたがたが自分の目で見ているとおり、主は彼らを恐怖に渡されたのです。」(Ⅱ歴代誌30:7)
現状をみるなら、そういう恐怖の中に陥っているので、主に戻っていきましょうということです。
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「今、あなたがたは自分の父たちのようにうなじのこわい者であってはなりません。主に服従しなさい。主がとこしえに聖別された聖所に入り、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう。」(Ⅱ歴代誌30:8)
主の礼拝を守らないからさばきがくる。
守るなら怒りから逃れていける。主に仕えていきましょうという話です。
「あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(Ⅱ歴代誌30:9)
捕虜になった人であったとしても悔い改めるなら哀れみを受ける。
事実、イスラエルの国はエジプト、またバビロンの捕囚があっても戻ってくることはできたのです。
なぜなら神の怒りが失せるからです。
今奴隷のような状態であったとしても戻ってくることができる。そういう知らせを持っていきました。
今離れている十部族のイスラエルの国の人たちに言いました。
「こうして、近衛兵は、エフライムとマナセから、ゼブルンの地に至るまで、町から町へと行き巡ったが、人々は彼らを物笑いにし、あざけった。」(Ⅱ歴30:10)
偶像を崇拝しているイスラエルの人たちのエフライム、マナセ、ゼブルンの地まで行きましたが、多くの場合は物笑いにして嘲る。
皆さんが伝道する時に「まことの神を礼拝しましょう、祝福されて今の問題から解放されますから」と話しても物笑いにされることがあるかもしれない。
しかし、私たちには主のみこころがある。
主のみこころが何かを知っているので、それを伝えます。
自分は天国に行けるから、他の人が信じなくても関与しないということではなく、私たちには伝える義務があります。
聖書のある箇所には、あなたがそれを伝えないでその人が死んだらその責任はあなたに来ると書いてあるのです。
私たちは伝えます。
信じる、信じないはその人の選択です。
神様はすべての人を救おうとされているので、私たちは語っていく。
物笑いにされたくないから伝道しない、と思う自分は死にました。
物笑いにされても気にしない。神の福音を伝えていく。その使命を受けているということです。
「ただ、アシェル、マナセおよびゼブルンのある人々はへりくだって、エルサレムに上って来た。」(Ⅱ歴代誌30:11)
イスラエルの国に入ったアシェル、マナセ、ゼブルンの中にはへりくだって、礼拝したいとエルサレムに上って来た人たちもいました。
「また、ユダには、神の御手が臨み、人々は心を一つにして、主のことばのとおりに王とそのつかさたちの命令を行った。」(Ⅱ歴代誌30:12)
一つ心になっておこなっていきました。ーーーーー9
「こうして、多くの民が第ニの月に、種を入れないパンの祭りを行おうとエルサレムに集まった。おびただしい大集団であった。」(Ⅱ歴代誌30:13)
多くの人たちが種を入れないパンの祭りを行おうと集まってきました。種なしパンの祭りと言います。
出エジプト記の12章の1節から11節を見ましょう。
「主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊1頭を用意しなさい。
もし家族が羊1頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」(出エジプト12:1~5)
イエス様が傷のない子羊、イエス様の意味を旧約で教えているのです。
「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。」(出エジプト12:6~11)
なぜ種を入れないパンの祭りになるのかというと、今から急いでエジプトを出なければいけないときに発酵するには時間がかかるので発酵しない種なしパンです。
またこの種なしパンは膨らまない。混ぜ物がありません。
私たちの信仰に混ぜ物があってはいけません。
そういうことも意味しているところがあると思います。
また過越の祭りとはイエス様の血潮を表し教えています。
1歳の子羊の血をかもいに塗る。
こういうことをおこなっていなかったのでともにやりましょうと呼びかけたのです。
第2歴代誌に戻っていきます。
Ⅱ歴代誌30:14、祭壇などすべての偶像のものをキデロン川に捨てた。
Ⅱ歴代誌30:15、聖別して過越のいけにえをほふり、全焼のいけにえを主の宮に携えてきた。
16節「祭司はレビ人の手から受け取った血を注いだ。」
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「集団の中には、身を聖別していなかった者が多かったので、レビ人が、きよくないすべての人々のために、過越のいけにえをほふる役目につき、これを聖別して主にささげた。」(Ⅱ歴代誌30:17)
「身を聖別していなかった者が多かった」とありますが、私たちも今日、聖餐式、悔い改めて主を受けなければいけません。
集まった人々の中には聖別していなかった者が多くいたため問題が起きました。
「民のうち大ぜいの者、すなわち、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめておらず、しかも、しるされているのと異なったやり方で、過越のいけにえを食べてしまったので、ヒゼキヤは、彼らのために祈って言った。「いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。」(Ⅱ歴代誌30:18)
偶像崇拝していたイスラエルの国から来たエフライムやマナセなどの人たちは異なったやり方をしてしまったので神の怒りに触れてしまう。
聖別されてない、悔い改めが出来ていない者は正しく行うことが出来ないのでヒゼキヤが神に祈ります。
Ⅱ歴代誌30:20「主はヒゼキヤの願いを聞かれ、民をいやされた。」
彼らが間違ったことしたのでどうぞ贖ってくださいという彼らのためのヒゼキヤの祈りが聞かれたので、間違ったことをしても赦されました。
本当に祈りというのは大切なものです。
間違った王様もいましたが悔い改めたら赦されました。やり直した、リセットした、聖別した、聖歌隊を整えた。するとまた祝福されていきます。
神の方に私たちが向く時に主が向いてくださいます。
あなたの目は神を見ていますか。
偶像の神を見ていますか。
私たちが神を見る時、神が近づいてくれます。
神が守ってくださることを忘れてはいけないのです。
「ヒゼキヤは、主の務めによく通じているすべてのレビ人の心に語りかけた。そこで彼らは、和解のいけにえをささげ、彼らの父祖の神、主に告白をしつつ、七日間、祝いの食物にあずかった。」(Ⅱ歴代誌30:22)
種なしパンの食事を7日間行いました。
「それから、全集団は、あと七日間祭りを行うことを決議し、喜びをもって七日間、祭りを行った。」(Ⅱ歴代誌30:23)
祭りを続けて行いました。また多くのいけにえです。
「ユダの王ヒゼキヤは集団に一千頭の雄牛と七千頭の羊を贈り、つかさたちは集団に雄牛一千頭と羊一万頭を贈り、多くの祭司は身を聖別した。」(Ⅱ歴代誌30:24)
これだけのものを捧げる、ほふるというと、人が足りませんし時間もかかることです。
今まで宮を閉じていましたから、それまでの罪、また贖いをしなければいけないので、行っていきます。
しかし、そうすることはユダヤ人にとっては喜びになったのでそれを行うことが出来たということです。
「こうして、ユダの全集団と祭司とレビ人、およびイスラエルから来た全集団、イスラエルの地から来た在留異国人、ユダに在住している者たちは、喜んだ。」(Ⅱ歴代誌30:25)
捧げることができたことに感謝していきます。
ーーーーーー11
「エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった。それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。」(Ⅱ歴代誌30:26,27)
イスラエル、ソロモンの時代からこのかた、なかった大きな喜びがなされていきました。
「これらすべてのことが終わると、そこにいた全イスラエルは、ユダの町々に出て行き、石の柱を打ちこわし、アシュラ像を切り落とし、全ユダとベニヤミンの中から、エフライムとマナセの中から、高き所と祭壇を取りこわして、断ち滅ぼした。そしてイスラエル人はみな、おのおのの所有地、それぞれの町へ帰って行った。」(Ⅱ歴代誌31:1)
徹底して聖絶を行いました。
「さらに彼らは、エルサレムに住む民に、祭司とレビ人の分を与えるように命じた。祭司とレビ人が主の律法に専念するためであった。」(Ⅱ歴代誌31:4)
奉仕する人たちの生活をみたということです。
「この命令が広まるとともに、イスラエルの人たちは、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、すべての野の収穫の初物をたくさん持って来た。彼らはすべてのものの十分の一を豊富に携えて来た。」(Ⅱ歴代誌31:5)
十分の一を持ってきました。皆が豊富に持ってきたので積み上がっていきます。
Ⅱ歴代誌31:9、ヒゼキヤはなぜこんなにあるのかと訊ねます。
10節、祭司アザルヤが、「人々が奉納物を主の宮に携えて来始めてから、食べて、満ち足り、たくさん残しました。主が御民を祝福されたからです。その残りがこんなにたくさんあるのです。」と答えます。
そこで保管する場所の確保が必要なので、
11節、脇部屋を整えるよう指示が出され、
12節で責任者カナヌヤが指図してささげものを搬入し、
13節ではその下に管理者を置き分配をしていきました。
「おのおのの町の放牧地の野にいたアロンの子である祭司たちのためには、どの町にも、その名の示された者たちがいて、祭司たちのすべての男子、および、レビ人ですべての系図に載せられている者に、その受ける分を与えた。」(Ⅱ歴代誌31:19)
系図に載っている者、祭司、レビ人に与えたということです。
「ヒゼキヤはユダ全国にこのように行い、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行った。彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行い、その目的を果たした。」(Ⅱ歴代誌31:20,21)
ヒゼキヤはユダ全体に正しいこと、主の前に正しいことを行った素晴らしい王様です。
この後、強国アッシリヤが攻めてきます。
今まで奴隷になった人たちもいます。
前王アハズはアッシリヤに貢ぎ物を贈って頼みましたが、助けは得られませんでした。
弱まったユダにあって、ヒゼキヤ王は神を見上げていく中で、国が整っていきました。
次週はアッシリヤにどのように勝利したのかというところをみていきたいと思います。
イエス様の名で祝福します。天のお父様、感謝します。すべての栄光をあなたの元にお返しします。主イエス・キリストの御恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりが豊かになり、ひとりひとりを聖別し、主の道を歩み、罪を犯しても告白し、主の祝福が豊かにあるようにお祈りします。イエス様の御名でアーメン。感謝します。